FF談話録
雑誌のインタビューやテレビ番組出演時に藤子F氏自身が語った内容を紹介。

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YOM「海を越えるドラえもん」インタビュー抜粋

「大好きなのは、SF─こし・しぎな─物語です。」


(中略)

YOM
もちろん、日本国内では、抜群の人気キャラクターですが、多くの外国、とくにアジアで、コミック、アニメ、グッズなど大人気ですね。

藤子
いろいろな国に出たんですが、やっぱり圧倒的に反響があるのが、ひとことでいうと、モンゴロイド系ということになるようですね。血のつながりみたいなものが共感を呼ぶのでしょうか。ヨーロッパなどにも出てはるんですが、これといった手応えは伝わってこないんですよ。

YOM
アジアに「ドラえもん」が出ていっているということを最初に知ったとき、どんな風にお感じになりましたか。

藤子
実は、「ドラえもん」以前にも、ぼくのものは、東南アジアにいろいろと出ていっていたんです。昭和30年代初めに、講談社の学習誌で連載していた「タップタップの冒険」、そのあとの「オバQ」や「パーマン」とか、大体一通りは出てたんですね。ですから、「ドラえもん」が出ていったこと自体には驚かなかったんですけれども、なにしろ種類がずいぶん多かった。

YOM
大半が日本版を勝手にコピーして翻訳した「海賊版」ですが、本当に様々です。

藤子
昔は自分のマンガが、言葉も通じないような外国の子供たちに喜んで読まれているというのは、おもしろいとおもっていましたが、やはり、量的に目に余ってきて‥‥。そのうち、正式に翻訳権を得て出版するところも出てきてたんですね。そういう人がバカを見るようなことになっては困る、なんとかならないかなと思い始めたところです。

YOM
「モンゴロイド系」に受ける理由は何でしょうか。

藤子
全く見当がつきません。(笑)

YOM
絵の感じなんでしょうか。

藤子
ぼくは手塚先生の影響を受けています。手塚先生はアメリカマンガ系なんですよ。だから、本来の日本的な絵というより、アメリカの方に影響を受けているような種類の絵なんです。ですから、絵の感じのせいだとは思えません。アイデアなんでしょうか‥‥。

でも、そもそも人気というのは、国内でも本当のところは分かりません。新作をこれまで何百本も書いてきましたが、書く以上は、どれも大勢の人に受け入れて欲しい、と思っているんです。それが結果として、人気マンガと、はかなく消えていくマンガが分かれるんです。それがなぜかは、結果論としてもっともらしい理由はつきますけれども、本当のところはわからないんじゃないかなあ‥‥。

(中略)

YOM
藤子・F・不二雄先生の作品には、共通の夢があるように思います。空を飛ぶこと、宇宙への興味、タイムトラベル、さらに恐竜。「オバQ」、「パーマン」は空を飛ぶし、「21エモン」では宇宙旅行が重要なテーマです。そして「ドラえもん」は、道具の力を借りて、それらを全部実現していますね。

ひとことでまとめれば、「SF」ということになるでしょうが、それは小さい頃からの先生の夢だったのでしょうか。

藤子
そのとおりです。なにも、SFといってもガチガチのハードSFである必要はないんで、チョビッと日常生活から離れた空想が膨らんだ部分があれば、おもしろいなあと思いましてね。100%空想の─たとえば、何百年後の、地球を遙か離れた宇宙の壮大なドラマというようなのは、ぼくはあんまり興味を持たない方なんです。

SFといっても、いろいろなジャンルがありまして、ぼくの好きなのは、その中の狭い範囲のものだと思うんですが、でも、それは、「オバQ」やら「ドラえもん」なんかもとりこめるような、ゆるやかなワクのものです。しょっちゅういってることですけど、SFの、Sは「すこし」、Fは「ふしぎ」─「すこしふしぎな物語」というのが、ぼくが好きで読むものであり、書くマンガであり、ということですね。

YOM
確かに、「ドラえもん」では、宇宙に行くのにも、大仰な道具は要りませんし、時間旅行は、のび太の机の引き出しがタイムマシンの入り口になっていて、実に簡単です。

藤子
それは、ひとつには、ページ数の制約もありますけれどね。学習誌は、マンガ主体というわけではないので、長くても10ページくらいの中で、起承転結を盛り込むとなると、夢の実現のために延々と取り組んでいる場面を書いている余裕はない。もう、ポケットからパッてやるしかない。ぼくが興味を持っているのは、夢がかなった結果の方ですから。はたして本当に思っていたようになったか、あるいはとんでもないことになったか‥‥。

YOM
わたしたちの世代では、ドラえもんの道具は、かなり日常の語彙になっています。「どこでもドア」が欲しいなあ」とか。

藤子
ぼくも欲しいですよ(笑)。自分で欲しいものを書いてるんです、結局ね。タイムマシンも欲しいし、タケコプターも欲しい。

YOM
自分の体はそのままで飛ぶというのが、楽しいですね。

藤子
飛行感覚というものは、多くの人にとって魅力あると思うんです。ジャンボ・ジェットなんかになってしまうと、ほとんど魅力はありませんが、セスナとか、ヘリコプターとか、小さくなると楽しいですね。10年くらい前、タイの海岸でパラセールに乗ったことがあるんです。モーターボートで引っ張ってもらって空中に上がる。あれは楽しかった。飛んでるって実感が、それまでで最高に味わえた。もう少しぼくに運動神経があればね、ハンググライダーとかいろいろやってみたいんですけどね。

そのときは、タイで最初にドラえもんの映画が上映され、テレビでアニメが始まったとき、むこうのテレビ局に招かれたんですが、都会を離れた小さい街の裏道に、ドラえもんのTシャツを着た子供がいたり、「ぼくの知らないこういうところまで来てるんだなあ、がんばってくれてるなあ」なんて思いました。

(中略)

YOM
「ドラえもん」が、今のような長寿作品になるだろう、とお感じになったのは、どれくらいの時期だったのでしょうか。

藤子
5年くらいのところで、ひょっとしてこれ、ロングランになるかなって気はしましたか。学習誌の連載というのは、学習誌の中では、そこそこの人気は取るんです。でも、なかなか外へはひろがらない、それに、だいたい2年めくらいから、「そろそろ新しいものを」と編集部からいってくる。ですから、「ドラえもん」も連載を始めて早い時期に一度、最終回を書いちゃってるんですよね。

YOM
てんとう虫コミックス第6巻の「さようなら、ドラえもん」ですね。

藤子
ええ、本当に終わるつもりでした。ところが、けっこう反響があったみたいで、「もう少し続けてみましょう」と編集部が言ってきて、困っちゃいましたけどね(笑)。結局、エイプリル・フールにからませて、帰ってきちゃった、ということにしましたが。

いずれは、本当の最終回をちゃんと書きたいと思っているんですが、今度はどう締めくくったものか、今から頭が痛い(笑)。そのあと、単行本にまとめたりしたら、これがけっこうひろがり始めましてね。

YOM
てんとう虫コミックス第一巻が74年8月‥‥。

藤子
前年の73年に、日本テレビでアニメ化して、うまくいかなかったんですが、熱心な人がいて、連載10年目の79年から、2度目のアニメが放映され始めましてね(現テレビ朝日)。その頃は、単行本も、ある程度ゆき渡っていたので、相乗効果が生じて、この段階で初めて、社会的に認められるほどの人気マンガになりました。

YOM
「ドラえもん」の特徴として、作品本編以外に「ひみつ道具事典」、「ドラえもん大百科」や教育グッズなど、いろいろなものがたくさん作られていることがあると思います。

藤子
それらの企画は全部、小学館が考えたものですから、「ドラえもん」の最盛期の頃は、ぼくはマンガで手一杯になっちゃって、ほかの人が中心でやったのも多いんです。ですから、「おお、ドラえもんには、こんな機能やルールがあったのか」なんて(笑)。自分の知らない間にね。

YOM
大変細かくいろいろと解説されているものもありますね。

藤子
のび太は外から帰ってくると、靴を脱いで家に上がるんですが、ドラえもんはそのままです。「廊下が泥足で汚れないのはなぜか。それは、ドラえもんは反重力で1ミリくらいは宙に浮いているからなのだ」ということになっているけれど、それは、ぼくは決めた覚えはない(笑)。

(中略)

YOM
のび太は昭和39年生まれですが、大人になる様子がありませんね(笑)。

藤子
ぼくは、話をつくるときは、現実的な背景を用意して、どこにでもあるような街の、どこにでもあるような家の、どこにでもいるような子の物語、そこに異分子が入っていくというふうに考えて、そのとおり書いているつもりなんだけど、いつの間にか、少しずつ現実離れしてきているということは、気づいていないわけじゃないんです。たとえば、いまどき塾へ行かない小学生はめずらしいし。

YOM
そうですね。のび太は学校から帰ってくると昼寝ばかりしている。

藤子
そう。でもね、のび太を塾に行かせると、もうドラえもんは書けなくなっちゃうんですよね。しょうがないから、スタートのままのスタンスで話を進めているんだけれど、意外と、読者の方が気にしない。まあ、いまのところは許してもらえてるなと。

YOM
土管が積んである空き地や、宝物を埋められるような裏山なんて、もう珍しいですよね。

藤子
ガキ大将なんかもいない時代になってるんですけど、それヌキでは話が作れない。

一応、登場人物が年を取らないタイプのマンガとして書いてるんですけど、スタイルとしては、のび太が一生懸命上昇志向を持って、もう少しマシな人間になりたいという姿勢を持ち続けているマンガであるわけですよ。いかにも成長マンガであるような装いをもちながら、実は成長しない。そのへんの矛盾がちょっと痛いところです。だから、厳密に言えば、ほんのちょっと成長しています。たとえば、前は5回に1回、0点とったのが、最近は10回に1回になった(笑)とかね。

YOM
22、3年かかって(笑)やっと。のび太は何度も反省するんですけどねえ。

藤子
だから、それがまったくなんの甲斐もなかったっていうんじゃ、かわいそう過ぎる。

YOM
ドラえもんも報われない。

藤子
だけど、マンガというのは、主人公が立派になっていくと、とたんにおもしろくなくなるということも本当ですしね。ですから、いってみれば、床屋の看板のアメンボウみたいなものでね。グルグル上へ上がって行くように見えて、実は同じとこにいるわけで。

YOM
最初の頃は、喜んで道具をどんどん出しているドラえもんが、最近は、ひとこと説教をするようになり、のび太も「ドラえもんなんかに、頼まないやい」と意地を張る。

藤子
でも、そういうやりとりを別にすれば、やってることはちっとも変わらない(笑)。

(中略)

YOM
今後、どのようなドラえもんであり、のび太であるんでしょうか。

藤子
ある彫刻家が言っていました。自分が作るんじゃなくて、空間にその作品は既に出来ていて、自分はそれを取り出すだけなんだと。ぼくもそんな気がしているんですよ。たとえば、オバQの毛を、最初、モジャモジャ書いていたのは、ぼくがオバQをよく分かっていなかったんだと思うんです。書いてるうちにそれがわかってきた。オバQは本来3本の毛であるべきで、それをやっと正確に書けるようになったということだと思うんです。

ドラえもんにしても、のび太にしても、登場人物が一人歩きするというのは、全くその通りで、収まってみると、彼らは本来そうあるべきだったんだという感じがする。ですから、これからも、彼らの正確な姿を写し取っていくようにしたいと思います。

YOM 1993年6月号(岩波書店)より 抜粋

コメント

このインタビューは、ちょうど「のび太とブリキの迷宮」が公開された頃に行われたもののようである。この「ブリキの迷宮」は、体調が思わしくない氏が入退院を繰り返している最中描かれたという。ところが、この話の内容を見る限り、まったくドラに対する意欲というものの衰えを感じない。

インタビューの最後のF氏の言葉、「彼らの正確な姿を写し取っていくようにしたい」。これは、後期の作品になるにつれ、登場人物は、その本来の姿になっていっている、また、そうしていきたい、とF氏自身で感じておられたことが伺える。本来のドラ、これを追求していたのは、私たち読者以前に、それを描いているF氏自身だった‥‥。

大長編ドラは、この後、「夢幻三剣士」、「創世日記」‥‥と続いて行くわけだが、これを念頭に置いて、今一度、それらの作品を読み返してみるのも面白いかもしれない。

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ETV特集「手塚治虫の遺産」大友克洋対談

「手塚治虫は −雲の上の存在− でした」


(中略)

藤子
漫画家っていう、この世界に僕らが足を踏み入れたのも、そもそもは手塚先生の影響なんです。たまたま、安孫子くん(現・藤子不二雄A氏)が、僕のうちへ息切らして飛び込んできてね、すごく面白い漫画見つけたってわけですよ。それが、「新宝島」だった。で、わーっ、本当に面白い、と。どこかどう面白いんだか何か分からないんだけれども、とにかく、今まで描かれてきた子供の漫画っていう概念からは、ちょっと離れていたわけですよ。それで、とにかく、この手塚先生の漫画をもっともっと読みたいということでね。

大友
やっぱり「新宝島」から、ずっとリアルタイムで読まれていたわけですか。

藤子
そうですね。昭和23年に手塚先生が書き下ろされた漫画の単行本は、13冊にもなるんですよね。

大友
それは、ページ数にするとどのくらいになるんですかね。

藤子
ページ数にすると、今の水準からすれば、まあさほどなかったように思います。それでも、100ページ前後はありましてね。「地底国の怪人」とか「魔法屋敷」とか、手塚先生が初めて本領を発揮されたようなSFとか、メルヘンの大作の「ロストワールド」の上・下巻、これはもう古典的な名作になっちゃってますけど、これも同じ年に出されたわけですよ。

それで、昭和26年に、書き下ろし漫画の頂点になるわけですが、「来るべき世界」の上・下巻、これが出ましてね。それから、矢継ぎ早ですよ。(手塚先生が)一番得意にされたジャンルは、SFですね。このSFも、タイムマシンものあり、宇宙人ものあり、それから、人間の体内へ入っていってミクロの世界の探検のようなものもあり、ホラー、オカルト、時代劇、それから「ファウスト」や「罪と罰」などの文芸大作などもありましたね。とにかく、一作一作目が離せない感じなんですよ。

大友
20年代から始まって、30年代、40年代と、毎回いろんなものに挑戦されて描かれているわかですよね。そのパワーといいますか、僕たちは最初の衝撃よりも、振り返ってみたときの衝撃の方が大きいんですよね。

藤子
そういうことは、あるかもしれませんね。

大友
リアルタイムでは読んでないんですが、手塚全集などを振り返ってみましても、これは凄いなあと。僕が知りたいのは、こんなに長い時間、こんなに凄い量を描かれていた手塚先生って、どういう人なのかっていうことなんです。

藤子
注目を浴びる新人が出てくると、そういうのを(手塚先生は)すごくライバル視されてたみたいですね。普通はこういうのを見ちゃいますと、まぁ、「金持ち喧嘩せず」といいますが、(笑) おお、よくやっとるな、頑張ってくれや、と、そこで済まないところなんですよね。常に現役トップであるべきだ、それであって当然という、その凄まじさですよね。だから、(手塚先生の)周囲が、必ずしもあの長丁場、順風満帆とは行かいんですよ。先生自身、スランプを自覚されて落ち込んで悩んでおられることもあった。

その頃は、もう今以上に僕の絵なんてのは手塚先生の影響を受けてるわけですよ。僕らが、昭和29年に東京へ出てきて持ち込みを始めたときに、ある雑誌の編集者がですね、こういう絵は、もう古いんだと。(笑)

大友
昭和29年にですか。

藤子
ええ。手塚先生は、もう過去の人だというわけですよ。で、これからは、こういう絵が流行るんだといってね、福井英一さんなどの描かれた別冊付録をくれまして、これを見て勉強しなさいと。だから、絶えずそういう声と戦いながらトップの座を走り続けなきゃいかんわけですよね。

大友
手塚先生って、漫画を描くことに、自分の描く漫画に自信を持っておられたんじゃないか、と思うんですよね。

藤子
そうですね。

(中略)

大友
漫画って、不思議な分野ですよね。フォークソングに近いというか、ギターがあれば自分のいいたいことをいえるというか。漫画というのは、デッサンがあるとかないとかいうのではなくて、自分の絵が描けて、自分なりの言いたいことがあれば、それで漫画家として成立するわけですからね。

藤子
やっぱりね、手塚先生も、それが当たってるかどうかは別として、自分は絵は上手くないんだと、でも、希望として、自分の作りだした架空世界を伝える「手段」としての絵なんだということをおっしゃってましたね。

何から何まで漫画で表現できると思うことは、これも一つの、ちょっと危険な考え方じゃないかと思うんですけれどね。やはり、それまで非常に取っつきにくかったような、難解な物理学の世界だとか、哲学の世界だとかね、そういうものを漫画で解説すれば、少なくとも、非常に取っつきやすい入口にはなると思うんです。そういう効用っていうのは、やっぱり認めなきゃいけないでしょうね。

大友
僕は今ちょっと、(漫画に)危機感っぽいものを感じているんですよね。数はすごく出てるんですけれど、その(漫画の中の)世界観っていいますか、そういうものをしっかりと持った人が、マイナーなところでは見られるんですが、メジャーなところでは、なかなかない。会社の意向というか、どうやったら売れるのか、といったようなものがよくある。その世界観や、自分の考えをストーリーの中で表していこうという作品がなかなか出ない、あるいは、そういうものが出尽くして、ネタ切れなんじゃないかなって、ちょっと感じるんですよね。

藤子
進化の頂点が進化の袋小路だという考え方も、一つありますわね。今まで生物はいろいろな種が出てますが、かつて絶滅しなかった種はない、といわれていると。だから、遠い目で、大きなスタンスで見れば、漫画も、あるいは絶滅の時期があるのかも知れない‥‥。でも、僕は、まだ、まだ大丈夫なんじゃないかな、と。僕が楽観的すぎるのかも知れませんけどね。(笑)

何ていうか、今、わーっと玉石混交で出てますよね。あのエネルギーの中から、次の新しいものも出て来るんじゃないかと。これが衰退期に入って、この一発を当てなきゃダメなんだ、みたいなことになってくると、みんながみんな一発必中の漫画を描き始めると、そのときは、やばい状態だと思うんですよね。


コメント

手塚治虫という漫画家の意志は、しっかり継いでおられていたんだなと感じる。きっと、藤子F氏ご自身も、手塚先生のようでありたい、どうやったらそうなれるのか、と考えておられたのだろう。

興味深いのは、漫画そのものに対する姿勢だ。漫画が全てではないという認識をしっかり持った上で、その漫画でどれだけの表現が出来るのか、という挑戦も、藤子F氏の中にあっただろうと伺える。そして、「漫画の絶滅」ということに関して大友氏が藤子F氏へ振ったのに対し、それは、今はまだ大丈夫なんじゃないか、と答えておられる。多く出回っている今のエネルギーがあれば、そこにこそ希望はある、といったところか。つまり、漫画が世間で認められているうちは、まだ大丈夫だろうと。(ここは、私の勝手な解釈であるが。)

手塚治虫という偉大な人物が作り上げたこの世界。とにかく、少なくともこの状況だけは崩すべからず、という考え方が感じられるだろう。

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BS2「夢の工房(1)藤子・F・不二雄の世界」出演時コメント抜粋

「何か異分子が飛び込んできて、それで騒動が起きるというパターン − これがやっぱり一番僕の資質にあっていたんですかね。」


(中略)

長野
藤子さんはデビューなさって42年間、児童漫画を描き続けていらっしゃるというのは、唯一といってよろしいんでしょうか?

藤子
そうでもないと思うんですがね(笑)。

長野
今までに大体どのくらい描かれてこられたんですか?

藤子
詳しく勘定したことはないんですが、まぁ大体100以上、200以下というところでしょうか。決して多くないと思います。最近の漫画家さんは、皆さんスピードが速いですからね。僕は非常に遅いもんですからその程度なんですけどね。

長野
その全てが子供向け漫画と言うことで、その魅力を一言で言うと、どういうところにあるんでしょうか?

藤子
あの、子供の夢と願望ってのは、結局、大人もみんな抱いているような一番基本的なものを持ってると思うんですよね。その部分を膨らまして描いているっていうのは、飽きないといいますかね、いくらでも描けますね。

(中略)

富田
漫画のQ太郎髪の毛は、最初何か7本くらい生えてたみたいですが、どうして3本にしたんですか?

藤子
いや、したわけじゃないんですね。出たときには、ひどいときには10本くらいボシャボシャ生えてたんですよ。ところが、描いているうちに、まぁ、いろいろ苦労して減ってった、ていうのは冗談ですけどね(笑)。やっぱり何か、3本ってのは一番おさまりがいいんですよ。いつの間にかそうなってた、何ヶ月かかかってそうなってたんですよね。単行本に収録するときは、そのへんの過程は適当に修正しちゃったんですけど、作者も気づかないうちに3本になっちゃってた(笑)。

富田
ドラえもんはネズミがダメですけど、Qちゃんは犬がダメなんですよね。

藤子
はい。何かやっぱり、空飛んだり、消えたりする超能力を持ってたりして、それじゃやっぱり人間とのハンデがつきすぎるんですよね。何か弱点がいるんじゃないか。で、身近にいる犬ってのは、昔から狐狸妖怪とかオバケってのは犬が天敵って事になってますよね。それで決めました。

(中略)

井上
当時、スタジオゼロでは鈴木伸一さんくらいしかアニメの専門家はいらっしゃらなかったということで、その辺はいろいろご苦労なさったのではないでしょうか?

藤子
ええ、もうレクチャーを受けながらの初めてのアニメ体験で、だから、パイロットフィルムを作ったといっても、全然記憶にないんですよね。つまりね、スタジオゼロというアニメの会社を作ったんですけども、その採算がとれなくて、その資金源としまして、ちょうど少年サンデーからオバケ漫画の連載の依頼があったのを、社員に月給を払うために作ったんですよ。

富田
サンデーから依頼があったということですが、どうしてこういうキャラクターになったんですか?

藤子
こっちもね、オバケの漫画というだけで、どういう漫画を描いていいのか全然見当が付かなくて、とにかく、オバケのキャラクター7通りくらい描きました。どれかいいの選んでくれと、下駄は預けちゃって、で選んできたのがこれなんですよ。だから、違ったのを選ばれてたら、違った性格の漫画がきっとできてたと思うんです。

長野
なんとなく、上からふわっとシーツをかぶったような‥‥。

藤子
ええ、西洋オバケの系統ですね。

長野
オバQにはパイロット版もあるんですが、随分ハイカラな、アメリカ漫画を想わせるような映像ですよね。これは(オバQを)海外に輸出なさるということを考えていらっしゃったんでしょうか?

藤子
といいますより、国産で生活ギャグ漫画のアニメ化ってのはなかったわけですよ。こっちとしても手探りで、見当がつかなくって、普通の雑誌に描いた漫画をそのまま動かしてそのままセリフを喋らせて、それでギャグがギャグになるのかどうか。ついやっぱり、イメージとしまして、(パイロット版では)向こうのアメリカ漫画みたいな感じが雰囲気に入っちゃったんですね。

で、これはこれでね、結局空振りにおわっちゃったんですよ。だけど、別に後から依頼が来て、改めて作ったときに、最初に向こうの制作者側からいわれたのが、これは是非輸出しないと採算がとれない、無国籍映画にする、というんですね。で、畳敷きはダメ、正ちゃんのうちには自家用車がある、和服はダメ、下駄履きもダメ。今思えば、パイロット版の経験もあったんでしょうね、やっぱりそれは何か違うということで、漫画そのものが日本の風土に密着して生まれたものですから、それは困るので、それだったら止めてくれ、ということで、すったもんだのあげく、結局、日本的なオバケの漫画を作らせて貰ったと。結果的にそれはよかったと思うんですけどね。

長野
パイロット版を見てると、公園に土管が置いてあるとか、そういう昔の雰囲気は出てこないですよね。

(中略)

長野
Qちゃんを描かれたことで、その後に参考になったことなどありますか?

藤子
そうですね、結局どこにでもあるような平凡な家庭の中に、何か異分子が飛び込んできて、それで騒動が起きるというパターンが、ここで成功したもんですから、この後延々と、パーマン以降も同じパターンをずっと踏襲していくことになりまして、これがやっぱり一番僕の資質にあっていたんですかね。ドラえもんも、この延長として描いてるわけなんですよ。

井上
Qちゃんの服の中には一体何が入っているのかということを、ちょっとお伺いしておきたかったんですが。

藤子
それはやっぱり、オバケには神秘的な部分が残ってないと、オバケじゃなくなってしまいますから(笑)。

長野
藤子さんは、普通の日常の中に、ぽこっと何かあるということで、非常にリアルな世界はあまり描かれたことはなかったんですね。

藤子
日常茶飯は日常茶飯のまんまで描くってのは、僕にはできないんです。何か空想的な部分を盛り込まないと。その非日常の部分として、オバQがあり、パーマンがあり、ドラえもんがあるわけですね。

井上
ところが、藤子さんは、「劇画オバQ」という作品も描かれていらっしゃいますよね。 −中略− これは、当時から賛否両論あったと思うんですが、藤子さん自身はどういう動機でこれをお描きになられたんですか?

藤子
これは、そのころの僕の気分の反映なんですね。漫画が市民権を得たのはとてもいいことなんですけどね、どんどん漫画を読む読者の年齢が上がっていきまして、劇画がぐんぐん伸してきまして、それで、漫画悪性運動の反動といいますか、毒のない漫画は漫画じゃないというところまでいっちゃったんですよ。そうすると、生活ギャグ漫画ってのが袋小路に入ったようになっちゃって、非常に悲観的な気分になってましてね。もう子供の頃の夢は通用しないんじゃないかなという気分から、これを描いちゃったわけです。

長野
いろいろと反響もあったでしょうね。

藤子
どちらかといえば、止めて欲しかったという反響の方が多かったですね(笑)。


コメント

藤子F作品独特の色の原点は、やはり「オバQ」にあった。

その当時、漫画、アニメとして一番広く受けていたのは、「鉄人28号」や「仮面ライダー」、「鉄腕アトム」などの正義のヒーローものだった。アニメ化してストーリーを作るにも、それが一番スタンダードだった。ところが、オバQの登場は、その流れを一転させ、生活ギャグ漫画を一気に普及させた。ちなみに、国産の生活ギャグ漫画のアニメとしては、「オバQ」が初であったという。

藤子F氏自身、このパターンこそが、最も自分の資質に合っていたと認めている。オバQ以降も、「パーマン」、「ドラえもん」にその流れを見ることができる。それまで、空想そのものでしかなかった漫画の世界が、日常に片足つけて、一方で空想に走る、という、私たちにより馴染みやすい形になった。漫画の世界観が、憧れのヒーローの世界ではなく、僕らの友達がいる世界、となった。この、ごく近所で起こっているような感覚、それを絶妙に表現できたのは、この「オバQ」が最初ではなかったろうか。

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