ミノタウロスの皿

その宇宙船は宇宙未踏査空間を航行中、食料が底をつき、乗組員は主人公一人を残して全滅してしまった。そして、ある地球型惑星に漂着する。主人公はその星の女の子ミノアに助けられ、その美しさに心を奪われていく。ところが、なんとその星では、人間は家畜であり、地球で人類にあたる存在が牛のような姿をしていたのだった。そして、ミノアは肉用種だと聞かされ驚愕する主人公。なんとかミノアを救おうとするが、その結末はいかに!?

考察

立場逆転の発想。藤子F氏はこの手法を異色短編で多く採用している。普段当たり前と思っていることは、実はそうではないのではないか、疑問に感じていいことではないのか、そんなことを思い起こさせる。いつも私たちは、人間だから当然人間の視点で社会を見ている。では、人間以外のものは、人間をどんな風に見ているのだろう?例えば、いつも私たちが好んで食べている牛肉。つまり、家畜の牛たちの心境とは如何に?

本編を見ていく。主人公はごく常識的な見識を持つ地球人である。その主人公が、宇宙船のトラブルによって、ある未踏査空間の星へ不時着(墜落?)する。その星は幸いにも地球型の星でなんとか生き延びた主人公は、姿形は地球人によく似た女の子に助けられる。彼女の名はミノア。主人公の心は一気にミノアの虜になってしまう。主人公はミノアと共に憩いの一時を過ごす。ある時、ミノアがバラのトゲに触れ軽い傷を負う。それに大騒ぎのミノア、そして家族とその周囲。単なるかすり傷で何事か。そんなところに主人公を驚かす事件。医者と称してやってきたのは、なんと地球の牛によく似た生物だった。主人公はその生物の見下された文句に腹を立て殴ってしまう。そしてそのまま囚われの身。ここで初めて主人公は、ミノアとその周囲が地球の家畜に相当するものだったと知る。さらに、主人公を驚愕の事実が襲う。ミノアは肉用種で、大祭の大皿に載せられるメインディッシュだというのである。

ここで注目すべき点。それは、食べられる当のミノアがそれを名誉に感じている、ということである。食べられるということは、死を意味する。生物にとって死は一番避けなければならないもののはずである。ところがミノアは、その死に恐怖を感じこそすれ“歯を抜く”程度にしか認識していない。実際、家畜に意志があったら、そう感じるものなのだろうか?もしそうなら、私たちとしては全く気兼ねなく食べることができるわけだが。ここで、ミノアの言い分を聞いてみよう。「なぜ逃げるの?なんにも悪いことをしていないのに」 いやその通り。しかしこのままでは食べられてしまうのだ。「地球では食べられないの?」 人間は食べられないが牛は食べられる。主人公はこの辺りを勘違いしているのだが、まぁ、食べられて死んでしまうのは同じことである。「ただ死ぬだけなんて、なんのために生まれてきたのか、わからないじゃないの」 確かに。そんなもの分かっている人間は、そうはいない。その意味では、おいしく食べられるという目的は真っ当ともいえる‥‥。何となく、正論?主人公が、ミノアを食べることに反対して、ミノックスのあちこちを演説して回る。主人公の主張は、ミノア(ウス)を食べるのは残虐であり、即刻やめるべき、というもの。それに対して、ミノックス星人たち(ズン類)は、意に反していないのであれば残虐ではない、むしろ、食べることは正当、としている。ここで話が何となくかみ合っていないと感じるのは、主人公は“ウス”を人間として見ているのに対して、ミノックス星人(ズン類)は、“ウス”は家畜として見ている、この視点の違いからである。喩えるなら、どこかの異星人が地球にやってきて、地球人に家畜を食べるのは残虐だからやめてくれ、と懇願して回っているようなものである。

私たちがあまり抵抗なく牛を食べていられるのは、おそらく牛に人間ほどの知能がない為だろう。もし、牛本人(本牛?)が、「私を食べないで!」と泣いて頼んできたら、私たちはどう反応するだろうか?それでも殺して食べてしまうだろうか?実際、地球の家畜はまさに食べられる為だけに生まれているのであり、食べる側の私たちは、彼ら(家畜)が私たちに食べられることを望んでいるのだ、と“思い込んで”食べるしかない。

最後に、「待望のステーキをほおばりながらおれは泣いた」とある。結局この主人公は、最後まで“ウス”を人間として見ていたことを知るわけだが、しかし、相手が家畜でも惚れた相手を食べられてしまうことに、幾ばくの同情がないわけでもない。

収録

2000年7月現在

映像


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