量子宇宙論を考える

今、世に語られている「科学的宇宙論」。これは、従来のニュートン力学による天体構造の考察から、量子論的な確率論、場の理論へその本質が変わりつつある。ホーキングのいう「量子宇宙」、これは、決定論的なものではなく、確率論的なもの。宇宙の未来は、以前の決定論的な考え方、つまり、法則によって決まった運命を持つのではなく、極めてゆらぎ多く不確定なものであろう、という考え方に変遷してきている。

人間の考える科学理論は、常にその主人公を人間の目に据えている。人間の目に見えるものが事実で、どうあっても見ることのできないものというのは、議論の対象から外される。だから、人に見える見えないに関わらず、ものの動きは何らかの法則で決定しているのではないか?ということは議論しない。その決定要素は、あくまで自分や人という観察者にある。それによる決定がなされない限りは「不確定」とする。ある時点で、その未来はあり得る限りの可能性を持っている。それは、ある決定要素によって選択的に一つに決まる。自分一人がそうではなく、これを人類全体に拡げてみても、ものを観察するという立場が変わらない以上(個と集合の違いはあるにせよ)不確定であることには変わりない。

とにかく、これまで私たちが持っていた常識を排除しよう。もともと量子論なり量子力学というのは、我々の目に見えないミクロの世界(素粒子の世界)を考えることに必要とされて生まれた考え方だ。そこではもはや私たちの常識であるニュートン力学は通用しない。粒子は、同時に波動の性質も持つ。その存在を考えるとき、観察する前はその可能性の波としてそこにあるという考え方をとる。つまり、粒子はそこにある可能性もあるし、あそこにある可能性もある、その強弱が波で表現されている、と思えば良い。量子論では、そのようなものを確定されていない可能性の集合体、と考える。これを、未来が「共存する」といったりする。それを観察する、つまり「粒子」として一意に決定すること、これを、「波が収束(収縮)する」という。それまで可能性の集合としての波だったものが、一個の結果である「粒子」として確定したことになるわけだ。

さて、これと同様の原理をマクロに対応させてみる。つまり、我々の宇宙は、あらゆる可能性の共存する状態として見ることができる。マクロの世界も、「量子」という性質を持つ素粒子で構成されているわけだから、それを適用しても悪くはないはず。実際、量子力学による計算がニュートン力学によるそれよりも正確かつ精密な結果を導き出すことは分かっている。ただ、量子力学だと複雑すぎるので、実用上無視できる誤差範囲ならニュートン力学でやった方が、手っ取り早く合理的なのでそうしてるのである。例えば、ボールが上から下へ落ちる現象や、月が地球の周りを回るといった計算も、量子力学を持ち出すと、まずその構成要素である素粒子から議論しなくてはならなくなるが、ニュートン力学であればその必要はない、というわけである。

逆に、ニュートン力学はミクロに適用できない。そういう意味で、量子力学の方が物理理論的に器が大きいといえる。量子力学をマクロな現象に適用しよう、という考え方を「対応原理」という。では、宇宙もミクロな素粒子の振る舞いのごとしであるか、といえば、その通り。宇宙は幾多の可能性を秘めた世界、それらを経験する以前は、可能性的に共存すると考えることもできるようになる。こういう考え方の一つに「多世界解釈」というものもある。

あらゆる可能性がある中で、我々の宇宙は、我々人間が誕生する方向へ選択的に決定されてきた、と考えられる。逆に、我々人間が、今ここにこうして存在しているということは、我々の宇宙は、こうして人間を誕生させる為に決定された世界であった、とも考えることができるわけだが。考えようによっては、見えるものが全てであるということから、観察者であり事象の決定要素である我々が、そういう世界を観察し、その事象なり法則なりを発見し、検証していることは、同時に宇宙という存在の姿を確定しつつある、ということにもなるのか。