一々の「疑いの理由」に対応した懐疑の諸段階があるということ。
感覚が、ときとして誤るものであるという懐疑理由
感覚所与一般では、何か微細なもの、きわめて遠くにあるものは、真理の領域から排除される(もしくは、誤る可能性が極めて高い感覚は、そもそも存在しないとする)。
狂人たちの仲間入りをしたらどうなるかという懐疑理由
自分が狂っていない(狂わない)可能性は排除できない。もしくは、現在自分が狂っていないという保障はどこにもない。それを自分で判断することは決してできない。
覚醒と睡眠を区別しうる確かな証(しるし)がないという懐疑理由。
現在感覚しているものが、実は全て夢(幻)である可能性は排除できない。また、夢の状態と現実の状態の区別は、その主観に閉じる限りそもそも不可能である。
最終的に“真理らしい”ものとして残されるのは、ただ「この(自分の)身体全体が私のものである」ということのみ。これは、「個別なことがら」である限りの感覚によって裏付けられる(と思える)からである。例えば「私が眼を開くこと、頭を動かすこと、手を伸ばすこと」、「そのような手、そのような体全体」を持つことは、確かに自意識によって検証することができる。
同じ理由 - 物体的諸観念の複合における誤りの可能性。
一般的なものである限りの物体の存在への疑い。「一般的なもの」とは、複合的事物。例えば、一般的なものである限りの「眼」、「頭」、「手」。そのような物体が存在すること自体は信じうるものとして妥当であるかどうか。
全てのことをなしうる神、或いは悪魔が仮想されうるという懐疑理由
単純で普遍的なもの、物体的本性一般、それらですら信じるに値するかどうか。すべての物体的本性(自然)一般とは、概念全て、例えば、「延長」、「形」、「量」、「大きさ」、「数」、「場所」、「持続」、「時間」など。
何ら確実なものはない。
デカルトの「コギトの発見(我思う、故に我あり)」の視点を転換すると、この結論と同等なものになる。