見えざるもの

目に見えないもの、我々の理解の外にあるもの、その中に多くの重要なものがあるように思える。ただ、超ミクロの粒子のように、小さすぎて見えないというものだけでなく、例えば、意志、概念、エネルギー、時間‥‥など。目でものを見るという行為は、光学的に光がその物体に当たって、その反射を視覚としてとらえること。また、音に関しても、なんらかの事象から発せられる気体などの媒体の振動を鼓膜の振動としてとらえるわけだが、人間はこうした体感的なものでしかものを「見る」ことができない。もっとそれ以上のものの感じ方がないものだろうか。人間の五感というのは、どうにも人間の理解や認識を著しく限したものであるように思える。

実際、その感覚で感じることはできないが、それを別の形で間接的に理解する方法はある。それは「理屈」で理解するということ。例えば数学によるものの考え方はそれにあたる。虚数や無理数など、それを実際には感じることはできないが、その仮想空間において解析することが可能というのも、一般にいかにも奇妙な話である。しかし、数学は、人間の感覚、主観を全て排除して物事を客観的に見ることのできる道具であるといえるだろう。物理的に人間に認識できないことでも、それは確かにあるのだ、と、私たちに教えてくれている気がする。

私たちの認識を物理的な感覚に限定しているのは、私たちの肉体がそういう構造でできているからである。光は目で、音は耳で、匂いは鼻で、熱や圧力は肌で感じることができるが、それ以上の情報を私たちは認識することはない(もっとも、第六感もあるかもしれないが)。それ以上の情報が本当はあるかもしれないのだが、実質それを感じることは不可能なのである。しかし、人は考えることができる。インプットは限られているが、それらを材料に、自らの脳で思考によって様々な事象を仮想することはできる。

ここで考えてみたいのだが、私たちに見えているものと見えていないもの、どちらが割合的に多いのだろうか?氷山の一角という言葉さながらに、おそらく見えているものというのは、そこにあるもののほんの一部に過ぎないのではないだろうか。実は、この宇宙には私たちに見えていないものの方が多いのであって、むしろそちらの方に重要なものが多く潜んでいそうである。

私たちは、宇宙の舞台公演だけを見せられていて、その裏方でどんなことが起こっているのかを知る手だてはない。単なる観客なら、その裏方を知る必要もないのだろうが、例えば私のように、それを知りたいと思う人間もまた多い。それを知りたい、という好奇心をかき立てさせているのも、当の宇宙自身だろうと考えると、いつかは知ることができるんじゃないか、とも思える。ただ、今の人間には何か見られたくないものがあって、それを必死に隠しているようにも思える。