科学とは何か

科学的にそれは不可能、科学的にあり得ない、そんな言葉を耳にすることがある。科学とは一体何なのか?

「科学」という言葉を辞書で引いてみた。すると、科学とは【ある対象を一定の目的、方法のもとに実験、研究し、その結果を体系的に組み立て、一般法則を見つけだし、またその応用を考える学問。『旺文社国語辞典』より】とある。これは、世の中の様子がどうなっているかということを探求する学問である、ということか。

つまるところ、科学というのは、ある現象に理屈を付ける作業である。現象は科学によって成立しているわけではい。科学がなくても、現象はある。人が考えるまでもなく宇宙はあり、地球は周り、その上に人や生物が存在している。そんなこと説明するまでもない。疑うなら見ればよろしい。現にそうなっているではないか!それで終わるのなら、あとは寝てしまうのが楽で良い。そうではなく、それにあえて理屈をつけて納得のいく解釈を得たい、それが人間の知性の本性だろうと、私は思う。

かつて、アリストテレスやヒッパルコスなどの学者は、太陽や惑星の運動について、かなり緻密な数学的手法によって説明した。この手法は、今でも天体の運動をよく予測している。しかし、その後に登場したケプラーやガリレイなどの学者は、それらをもっと簡単に、もっと的確に説明する手法に気づいている。彼らの考え方の何処が違っていたか、といえば、地球が止まっているか動いているか、という観点が違っていたのである。このような例を見ると、目の付け所一つによって、同じものに対する解釈も劇的に変わってくる、ということを感じさせられる。同じ対象を解析してるのに、その数学的プロセスは全く違う。しかも、それのどちらが人にとって理解に容易、ということはできるけど、どちらが正しくてどちらが間違い、と、決定的にいうことはできない。そこには、まだ確実でない余地が残っているからである。

実際、今でもケプラーの三法則では三体以上の運動を正確に説明することはできない。そこに相対論や量子論を絡ませることも可能だろうが、そうなると、かなり複雑に数式が積み上がってしまう。もともと世の中の最初にあった法則は、至ってシンプルなものだったのではないだろうか。そう考えると、それをこうして複雑化するという方向は、天動説を数学的に塗り固めて証明しようとしている方向と同じではないか。

実は、科学として今ある手法が最適かといえば、そうではないだろう。もっと単純で、もっと確からしい法則なり理論があるはずである。少なくとも歴史はそうであった。ニュートン力学、地動説、相対論、量子論、そして次世代の理論へと、人の歴史の中で、科学のパラダイムも次々と変貌している。その時代に最先端の知識、そして技術はあったが、それらは、次の時代の知識と技術によってすっかり塗り替えられていたりすることがある。科学というのは、こうして、かつての人が作り上げた土台を次の人が壊して、さらに次の新たなものを目指す。そうしたものが「科学」である、ともいえるかもしれない。

既成の理論で不可能を唱えている姿勢、というのは、実質、科学に関わろうとする姿勢ではないと考える。本当に知る、ということは、知らないことが如何に多いかということを知る、ということ。もともと、人の考えることなんて、それほど確かなものではない、という謙虚な前提のもとで、自然に、つまり宇宙に接していくべきであり、それが「科学的」な姿勢であると考える。