* 心身問題 [#ub46285e]
心身問題とは、人の心と身体との関係に関する哲学のひとつ。人も生物であり、有機体という物質の塊であるものに違いはない。その有機生物に「意識」や「思考」や「精神」など、心の諸現象があらわれるのは何故かという、現在“ハードプロブレム”とされている問題の象徴ともいえる。

- [[心身問題 - Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E8%BA%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6]]
- [[クオリア - Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2]]

** なぜ心身問題を解く必要があるか [#n72b5e4f]
“心”(と我々が呼ぶもの)は確かに存在し、それがあるからこそ我々の精神活動がある。何かを思ったり、感じたり、考えたりといったことは、物理的な活動とは別の領域であるように思われるが、しかし、精神活動が行われている(その中心)と考えられる“脳”というのは、物理的にはタンパク質の塊でしかない。そのギャップを埋めるべく問題解決を図ろうという試みが心身問題を考える動機である。

しかし、“心”は既にあるのだから、それを別の言葉でまた言い直す必要はないし、“心”はそういうものとして公理に配置しておけば良いのではないかという批判もある。つまり、それをわざわざ考察することで、科学的には何も有益な知見は得られないのではないか、という指摘である。しかし、“心”というのは、実際は我々が様々な物理現象を観察する上で最も根源にある主観であり、それがなければ、物理現象を観察する“眼”がない、即ち、その現象自体が観察できない(主観にとっては現象自体が存在しない)ということになる。

科学の現場ではしばしば忘れられがちだが、様々な自然現象を観察し、実験し、検証するといった科学の基本的研究活動を行っているのは人間である。つまり、それらの現象をデータとして記録したり、法則を導いたり、ある論文にまとめたりといった活動をしているのは、結局のところ、人間の精神活動であるといえる。

その精神活動、即ち“心”の根本原理が判然としないのに、自分たちがさも全ての客観であるかのように自然現象を捉えようとしていることは、原理のよくわかっていないブラックボックス的な未知のコンピュータを使って何かのデータ解析をしようとしているようなものではないだろうか。

とはいえ、精神活動を、同じく精神活動で解析をしようとすることは自己言及に他ならず、その際の考察は様々な難しい問題を抱えていることは否定できない。

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[[自然科学・哲学系メモ]]

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