メーヌ・ド・ビラン †フランス・スピリチュアリスムの祖と称されるメーヌ・ド・ビラン Maine de Biran, 1766-1824 の哲学テーマは、「内面の生 vie interieure」をつくりあげる「内的経験 experience interieure」であり、そしてそのような生と経験をもつ者であるかぎりの「人間」であった。 存在感情 †内的経験とは、経験の内、外が区別される以前に、いわゆる主客未分の状態、そしてまさにそこからして内外、主客の区別が出てくるような原始の一なる経験(純粋経験−西田幾太郎)があるのではないか。かような存在経験を、18世紀後半の哲学者たちは「存在感情 sentiment de I'existence」の語で言い表した。 一口に存在感情といっても一様ではない。例えば、ルソー J.J.Rousseau, 1712-1778 が描いた恍惚、法悦の感情(「孤独な散歩者の夢想」-「第五の散歩」)は、まったくの没我の状態である。それは、空間的にも時間的にも完全に孤立した、あらゆる他性を含まぬ、絶対的な存在の感情である。これに対して、未だ内外、主客の区別が感じられず、したがっていかなる時空の継起、広がりも知られぬが、しかしてただ「我」の存在のみが感じられてある、そういう種類の存在感上がある(人格的存在の感情)。そこには「我」の自己性の持続のみが息づいている。この感情がビランの出発点。 ビラン哲学の根本問題は次のように要約される。人格的自我の存在感情の起源は何に存するのか、その構造はどうなっているのか。 人間の生命 †生命に関する議論の背景として、ビュフォンがなした有機体的生命/動物的生命/人間的生命の段階的区別がある。ビランにとって人間の生命とは、有機体的生命力や動物的生命力には還元されない、人格的自我に固有の力( = 超有機的な力 force hyperorganique)の発露である。それは意志の力の発露である。 デカルト批判 (1) †デカルトの二元論は実体の二元論である。すなわち、精神と物体(身体)とは、各々独立して存在するニ実体であり、相互に外在的であると言われる。これに対して、ビランの二元論は関係する対項の二元論であるというべき。そこは人格的自我の存在感情を条件付けている「関係 rapport」の実在は「意識の事実 fait de conscience」として肯定されるが、実体としての精神や物体(身体)はの実在は括弧に入れられる。「意識のうちにおいては、何者も関係の資格においてでしか存在しえない。そして、意識のうちに関係がありうるためには、その二つの対項 deux termes がそこに同等の資格でなければならない」(「心理学基礎論」)。 内奥感 †意識の事実は内奥感 sens intime によって感得される。内奥感とは、五感からは区別されるいわば第六感である。それが感じ取るのは意思の力の実行化としての「努力の感情 sentiment de I'effort」である。それゆえ、「内奥感…それは努力感 sens de I'effort である」といわれる。意志の力の発露 = 努力を感じる内在的感覚能力が第六感として人間には備わっているのである。 主観的身体 †努力としての意志の力が実行化し感じられるためには「関係」が成立していなければならない。それが条件である。「関係」は二つの対項の存在を予想する、たとえ各々が独立には実在しえないとしても。一方の項は、意思的努力の主体(= 自我)であり、他方の項は、意志された努力に対して「それ自身に固有な慣性力によって直接的に抵抗する」「生ける抵抗 resistance vivante」(= 有機的抵抗 resistance organique)としての身体である。意識の事実として「関係」が成立しているとき、二つの対項は「分離されることなく分明」である。 留意すべき点は、「関係」は意識の事実として主観性の領域の内部にあるのだから、二つの対項は共に主観的なものとして、やかり主観性の内部に共存しているということ(自我と身体の共存性 coexistence)。自我に固有の身体(自己の身体 corps propre)の実在は意識のうちに「直接的に」感じられてある。ここにビランによって主観的身体が初めて見出された。 デカルト批判 (2) †デカルトは「我思う、故に我あり je pense, donc je suis」と述べた。しかし、ビランによればこれは訂正を必要とする。「思う(=考える)」という働きは知性の働きであり、何ら身体性を含まない。が、「思う」働きそれ自体が意識の事実として自己自身に現象するためには、その働きが「関係」を構成する必要がある。すなわち身体を必要とする。ビランによれば、「我志す、故に我あり je veux, donc je suis」である。意志の力の実行化は「関係」の対項として身体を含意している。意志の力が発露するのも、身体の抵抗に出会うことによって、である。 彫像の仮説 †感覚主義者 sensualiste コンディヤックの考え方と比較しておく。 コンディヤックは、英国経験論の代表的哲学者ロック John Locke, 1632-1704 の思想をフランスでもっともよく体現していた。彼はロックの経験論をさらにラディカルなものに突き詰め、ロックが意識の源泉としては感覚 sensation と反省 reflexion とを認めたのに対し、感覚だけしか許容しない。知覚をはじめ、記憶、反省、想像、判断、言語などすべての精神諸能力は感覚に由来する(感覚一元論)と考えられる。 コンディヤック E.Bonnot de Condillac, 1714/15-1780 は「感覚論」(1754)の中で当時流行の「彫像の仮説」を用いた思考実験を行い記述している。仮説の彫像は「その中身がわれわれと同じように組み立てられている。しかし、彼の精神はあらゆる種類の観念を奪われている。また、……個の彫像の外面はすべて大理石でできていて、彼は感覚器官を少しも働かせることが出来ない」。この彫像に、感官を一つずつ与え、それが受容する様々な感覚印象を順次経験させるならば、どうなるか。彼はどのような種類の観念をを獲得するか。また彼の精神能力の発達段階はどのように対応しているのか。 コンディヤックは嗅覚から始める。ここでビュフォンが人間の感覚能力と動物の感覚能力の差異について述べていたことを想起しておく。ところで、嗅覚のみを与えられた彫像が抱くのは、絶対的な存在の感情である。「われわれが彼に一本のバラの花を手向けてやるとき彼は、…彼自身にとっては、この花の匂いそのものでしかなかろう。…匂いとは彼にとっては彼自身の変容あるいは在り方なのである」。ここには彫像の自我の観念はまだない。彼は人格的存在ではない。 触覚のみを与えられた彫像がまず抱くのは、コンディヤックによれば、彼が彼自身の呼吸運動を感じる際の意識状態である<根本感情>である。「われわれは、彼の根本感情に何らかの変化が到来するやいなや、彼は<私>といいうるであろうことを認める」。コンディヤックにおいては、自我は遅れて到着する概念である。彫像はどのように彼の自我を認めるのか。「…自我は、精神に集約されるかわりに、ある種の仕方で身体の全部分に延伸され、発散され、反復されるのである」。「彫像は自らの手で自分自身に触れ、自分自身の身体の諸部分を区別するときに、はじめて身体を持つことを発見する」と同時に「同一の感じるもの」として自我を意識する。ここに彫像は初めて人格的な存在の感情を抱くに至る。 コンディヤックにおいて、身体は感覚の連続に対応する感覚の連続体である。ここにはコンディヤックの自己身体の発見がある。他方、自我はこの連続体にぴったりと重なる身体感覚の変容である。 内的空間、印象の局在化 †コンディヤックが問題にしている感覚は、触覚といえども、常に外部から印象を与えられる受動的感覚である。触覚の運動性は、残念ながら見逃されている。仮説の彫像は「自らの手で自分自身に触れ」るけれども、そのとき彼は自分の身体に外部から触れているだけである。触れる身体部分と触れられる身体部分とは、相互に外在的である。 しかし、そもそも、それらが互いに他方の外に置かれていると分かるのは何故か。また受動的感覚からのみ出発したのでは、感覚の局在化(「自分自身の身体の諸部分を区別する」)を解明することはできない、とビランは批判する。ビランは次のようにいう。「二つの受動的な感覚の応答は、この第一の認識[私の身体(自己の身体)についての直接的な認識]を基礎付けるに十分ではない。なんとなれば、何よりまずどのようにしてこれら二つの感覚が相互に区別されるのか、互いに他方の外に置かれるのかが説明されなければならないからである」。 ビランによれば、自己の身体の直接的な認識は「意志された努力と意志に譲歩しあるいは従うところの有機的抵抗との応答においてのみ基礎づけられる」のであり、この内的な応答なしにはあり得ない。意志された努力、すなわち意志の源泉としての人格的自我の生命力(=超有機的な力)の実行化であり、その運動性の現実化生きられた抵抗(=有機的抵抗)において感じられている、運動そのものとしての自己の身体、主観的身体である。 こうして得られた自己の身体の内的空間に感覚は局在化されると考えられる。「印象が私の身体の内的空間の様々な部位に局在化されるためには、まずそれぞれの部位に固有で直接的な感覚の反復された働きによって諸部位が区別されて、いわば相互に互いの外に置かれていなければならない」。各々の感覚が反復されうるのはなぜか。各々の器官に宿る運動性のおかげである。特定の運動の反復により、まず内的空間が分割されて、そこに外部から与えられる印象も局在化される。運動が分明になるほど、印象はよりよく局在化されて判明になる。これは「習慣論」(第一著作)以来のビランの主張である。 |